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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2026年4月5日・イースター礼拝  マルコ16章1〜8節「そこでお目にかかれる」

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皆さん、おはようございます。本日は復活節第一主日・イースター礼拝です。
マルコによる福音書16章7節「そこでお目にかかれる」・「見ることができる」という福音の核心に焦点を当てたいと思います。

招詞(詩編118編24節)を皆さんとご一緒にお読みしたいと思います。
「今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。」  ありがとうございます。
・神が特別な働きをなされる日であることを宣言しています。この「主の御業の日」とは、神ご自身が新しい命をもたらし、救いの歴史の転換点となる日を指しています。
詩編118編は、神の救いと恵みを賛美する詩であり、この24節は「今日」という今この時を、神の恵みの現れとして受け止め、喜びと感謝をもって祝うよう促しています。
イースターの礼拝において、この御言葉は主の復活を記念し、神が死を打ち破って新しい命を始められた日を祝う意味を持ちます。
単なる記念日ではなく、神の御業が今も私たちの人生に働いていることを思い起こし、今日を特別な喜びの日として受け止めるように導いています。
私たちは、この御言葉に倣い、神の恵みと救いを心から喜び、感謝し、希望を新たにすることが勧められています。そしてそれが出来るのです。
今朝、私たちはこの御言葉と共に、主の復活の日を迎えています。
イースターは、単なる記念日ではなく、「主の御業の日」、神ご自身が新しいいのちを始められた日です。

 

1.「誰が石を転がしてくれるのか」

安息日が終わり、新しい週の朝が訪れると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメたちが香料を携えて墓へ向かいました。
彼女たちの心には、愛する人を失った悲しみと未来が見えなくなるほどの絶望が広がっていました。
イエスが十字架で亡くなったという現実は、彼女たちの希望や生きる力を奪い、暗闇の中に閉じ込めていました。
彼女たちは、亡くなったイエスの遺体に敬意を払い、最後のお別れを告げるために墓へ向かいましたが、その道のりは悲しみと重苦しさに満ちていたことでしょう。
彼女たちの心の奥底には、「これからどう生きていけばよいのか」「希望はもうないのか」という問いが渦巻いていたに違いありません。

・「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」(16:3) という問いは、墓へ向かう女性たちの間で交わされた言葉ですが、
これは単なる物理的な障害についての心配ではありませんでした。墓の入口を塞ぐ大きな石は、彼女たちの力では動かせないものであり、その現実は死という絶対的な壁を象徴していました。
人間の力ではどうにもならない状況、終わってしまった希望や閉ざされた未来を象徴するものです。
彼女たちにとって、その石は悲しみや絶望、どうにもならない現実の象徴であり、人生の困難や絶対的な限界を表していました。
また、この問いの中には、「私たちの問題は誰が解決してくれるのか」「私たちの苦しみはどうすれば乗り越えられるのか」という、人間の無力さや限界に対する問いかけが込められています。
死によって断たれた希望、閉ざされた未来。 そのすべてが、墓の石に重ね合わされていたのです。

・一方で、ペトロをはじめとする弟子たちはどのような状態だったのでしょうか。彼らは、イエスが捕らえられたときに恐れを抱き、主を裏切って逃げてしまいました。
自分自身の弱さや失敗、罪を直視できず、心を閉ざしていました。弟子たちは恐れに支配され、外へ出ることもできず、希望を語ることもできませんでした。
彼らは、自分の信仰の弱さや裏切りの苦しみを抱え、心の中で悔いと恐れに縛られていたのです。
彼らの状態は、まさに「できない自分」に囚われ、前に進むことができず、未来への希望を持てないものでした。弟子たちの心にも、暗闇と絶望が広がっていたことでしょう。

・女性たちは「できないこと」。 墓の石を動かせない現実を抱えながら、それでもイエスへの愛と敬意を持って墓へ向かいました。
一方、弟子たちは「できない自分」。 主を裏切った罪と恐れに縛られて家に留まっていました。どちらも、限界や無力さを感じていたのです。
女性たちは困難を前にしても歩みを止めず、弟子たちは自分の弱さに苦しみながらも、心の中で主を思い続けていました。
両者ともに、希望を見失いながらも、何かを求めていました。彼らの姿は、私たちが困難や問題に直面したときの姿に重なります。

・しかし、復活の出来事は、そのような彼女たちや弟子たちの状態に先立って、すでに起こっていました。
彼らが何もできず、絶望や恐れに囚われている中で、神の御業は静かに、しかし確実に進行していたのです。
復活は、人間の努力や準備、心の状態とは関係なく、神ご自身の力によってなされたのです。
神の働きは、私たちの限界や絶望に先立ち、すでに新しい命と希望をもたらしています。
復活の出来事は、私たちが何かを成し遂げる前に、神が主導してくださるものであり、私たちの無力さの中にこそ、神の恵みが働いていることを示しています。
つまり、復活は人間の想像や期待を超えて、神の愛と救いが先立っているということなのです。

 

2 .「見ることができる」福音

・女性たちが墓に着いたとき、彼女たちが心配していた大きな石はすでに転がされていました。
これは彼女たちの力では到底動かせないものでしたが、神の御業によって障害が取り除かれていたのです。
その状況下で、天使が現れて彼女たちに語りかけます。
・天使は、彼女たちが今まで抱えていた悲しみや絶望、心の重荷に対して、神が先立って働いてくださっていることを示しています。
天使の言葉は、ただ現実を告げるだけでなく、新しい希望と大きな喜びをもたらすものでした。
墓の入り口の石が動かされたことは、死の壁が取り払われ、神が新しい命と未来を開いてくださったことの象徴でもあります。
絶望の中にいた女性たちにとって、その出来事は思いもよらない驚きと慰め、そして神の力の現れでした。
天使はさらに、こう告げました。「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。」(16:6)
この言葉は、イエスが死から復活されたこと、つまり人間の限界や絶望を超えて新しい命が与えられたことを宣言しています。
女性たちは悲しみと絶望の中で墓に向かいましたが、そこで彼女たちが聞いたのは、「イエスはここにはいない。復活した」という信じがたい、しかし希望に満ちた福音でした。
これは、私たちが人生の困難や壁にぶつかった時にも、神が私たちに新しい道を開いてくださるという保証でもあります。
天使はさらに続けて、女性たちに新しい使命を託します。
「弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」(16:7)
このメッセージは、主が先立ってガリラヤへ向かわれるという約束、そしてそこで「お目にかかれる」。 つまり主に出会うことができるという希望を示しています。
ガリラヤは弟子たちが最初に召された場所であり、日常の生活の場でもあります。復活の主は、特別な宗教的空間ではなく、日常の中で出会われるのです。
この「お目にかかれる」という言葉は、ギリシア語で「(o(ホ)`ra(ラ),w(オー)見るの未来形o;yesqe()あなたがたは見ることになる」という意味です。
この表現は、単なる物理的な出会いだけでなく、復活の主を目の当たりにすること、新しい命と希望を直接体験することを意味しています。
主の復活は、私たちが自力で探し出すものではなく、主が先に私たちのもとへ来てくださり、私たちに出会ってくださるものです。

これは、人生の困難や絶望に直面している時でも、主が先立って働いてくださるという約束でもあり、私たちの無力さや限界の中にも主の恵みが満ちていることを示しています。
つまりこれは、「あなたがたは、復活の主を見ることができる」という約束です。ここに福音があります。

この福音は、ただ救いの知らせを伝えるだけでなく、私たちが主の復活を実際に「見る」、つまり主の愛と恵みを体験することができるという具体的な希望を与えてくれます。
復活の主は、私たちの限界や失敗、悲しみや絶望の中にも現れてくださり、私たちに新しい命と希望を直接示してくださるのです。
この約束は、私たちが何か特別な努力をしなくても、主が先に行かれ、私たちの人生の歩みの中で出会ってくださることを保証しています。
主の働きは、私たちの思いを超えて、すでに私たちの未来に希望を用意してくださっているのです。
この「見ることができる」福音は、私たちにとっても大きな励ましです。私たちが人生の壁や困難に直面する時、主ご自身が先に行かれ、私たちの無力さや限界を超えて出会ってくださる。
人間が探し出すのでも、到達するのでもなく、主が私たちを導き、私たちに新しい命と希望を与えてくださるのです。
また、この約束は、どんなに失敗や罪を犯したとしても、主は私たちを見捨てず、先立って私たちに出会ってくださるという確かな慰めでもあります。
復活の主は、閉ざされた未来や絶望の中にも、希望の光をもたらしてくださるのです。
私たちが自分の力や努力に頼るのではなく、主の恵みと働きに信頼し、主が先立ってくださることに感謝して歩むことが、復活の福音の本質です。
復活の主と出会うその約束は、私たちの日常の中にも生きており、どんな状況でも主が私たちと共に歩まれることを示しています。

 

3 .ペトロへの特別な福音

・ここで特に注目すべきは、「弟子たちとペトロに」と名指しされていることです。これは単なる偶然ではありません。
聖書の中で、特定の人物が名指しされる時、それは極めて重要な意味を持っています。

・ペトロは十二弟子の中でも特別な存在でしたが、同時に主イエスを三度否認したという痛ましい経験を持っています。
その事実を知る私たちにとって、この「ペトロに」という呼びかけは、たとえどれほど失敗し、主から遠く離れてしまった者であっても、主の招きが決して絶えることのないものであることを強く示しています。
ペトロは、主を三度否認しました。最も深く主を愛していたはずの彼が、最も深く主を裏切ったのです。彼の裏切りは、人間の弱さや限界を象徴しています。
自分の信仰や愛に自信を持っていたはずのペトロが、恐れや不安の中で信仰を告白できなかったのです。このような失敗は、私たち自身の人生にも重ね合わせることができます。
どれほど主を愛していると自負していても、時には恐れや弱さに負けてしまうことがあります。
そのペトロに対して、主はこう言われるのです。「あなたも、見ることができる。」ペトロは、自分自身の失敗と向き合い、深い後悔と悲しみを味わっていたはずです。
しかし、復活の主は、そんなペトロに向かって、他の弟子たちと同じように、「あなたも会うことができる」と約束されたのです。
これは、主がペトロの失敗や裏切りを責めるのではなく、むしろ回復と新しい出発を与えようとしておられることを示しています。
これは赦しの宣言です。回復の約束です。主はペトロの失敗を知りながらも、彼を見捨てず、再び共に歩むことを望んでおられます。
人はしばしば失敗や裏切りを通して、もう一度立ち上がることができるのかと自問します。しかし、主は私たちに新しいチャンスと希望を与えてくださる方です。
主の赦しは、過去の過ちを帳消しにするだけでなく、私たちが再び主の働きのために立ち上がる力を与えてくださいます。このような主の愛は、私たち一人ひとりにも向けられています。
失敗した者、逃げた者、信仰を失った者に対しても、復活の主は「会うことができる」と語られるのです。この福音は、弱さを抱えたままの私たちにとって、大きな慰めであり、希望となります。
私たちはしばしば自分の不完全さや罪深さに目を向けがちですが、主は私たちの弱さや失敗を超えて、常に先に歩まれ、私たちを招いてくださっています。
ガリラヤで弟子たちが主に出会ったように、私たちも日常生活の中で、あるいは人生のどん底や挫折の中で、復活の主に出会うことができるのです。
ペトロへのこの特別な呼びかけは、私たち一人ひとりにも向けられています。
どんなに大きな過ちや裏切りを犯したとしても、主の愛は変わらず、主は私たちに再び歩み寄り、出会い、新しい人生を始める機会を与えてくださるのです。
これは、ただ過去を赦されるだけでなく、未来への希望と、人生が新しく造り変えられる約束でもあります。
だからこそ私たちは、自分の弱さに打ちひしがれることなく、主の恵みに信頼して前へ進むことができるのです。

 

4 .「ガリラヤで」 — 日常の中で出会う主

・そして、なぜガリラヤなのでしょうか。ガリラヤは、弟子たちが最初に召された場所です。 日常の生活の場であり、漁師としての働きの場であり、何も特別ではない場所です。
ガリラヤは弟子たちがイエスと共に歩み始めた原点とも言える場所であり、彼らが最も慣れ親しんだ日常の風景が広がっています。
そこは神殿や祭司のいるエルサレムのような宗教的中心地ではなく、むしろ当たり前の生活が営まれている、ごく普通の場所です。
弟子たちが日々の生活を送り、働き、家族や仲間と過ごした場所であり、喜びも悲しみも、成功も失敗も経験した現実の舞台です。

・復活の主は、特別な宗教的空間ではなく、彼らの日常の中で出会われます。
ガリラヤは、神が遠く離れた聖なる場所だけにおられるのではなく、私たちのごく普通の毎日の中に寄り添ってくださることを象徴しています。
弟子たちは失意の中でガリラヤに戻りましたが、主はその日常のただ中で、彼らに新たな出会いと使命を与えられました。
これは、信仰が特別な瞬間や場所だけに限られるものではなく、普通の暮らしの中にこそ、神との出会いがあることを示しています。
それは私たちにも同じです。礼拝のこの場だけではなく、 日々の生活の中で、職場で、家庭で、孤独の中で、また忙しさや悩みのただ中でも、主は私たちと出会おうとされます。
私たちは特別な場所や時間を求めてしまいがちですが、主は私たちの一番身近な場所、普段の生活の中においても共にいてくださるのです。
朝起きてから夜眠るまで、私たちがどんな思いを抱え、どんな状況にあっても、主はそのすべてをご存知であり、私たちに語りかけ、導いてくださいます。
忙しい仕事の中にあっても、家族との団らんや、ひとりの静かな時間の中にも、主は私たちを訪れてくださるのです。

・主は先に行かれ、私たちを待っておられるのです。つまり、私たちが主を求め、出会おうとする前から、主ご自身が私たちの歩む先に立ち、私たちのために道を備えておられます。
ガリラヤでの出会いは、私たちがどんなに弱くても、迷いがあっても、主が先導し、私たちを迎えてくださるという大きな希望を示しています。
私たちがどこにいても、どんな状況にあっても、主は変わらず私たちを愛し、待っておられるのです。
この約束は、人生の転機や困難の時だけでなく、日々の営みの中においても生きています。
主は、私たちが気づかぬうちにも共におられ、何気ない日常にこそ、復活の恵みと新しい出発への呼びかけがあることを教えてくださいます。

 

5 .恐れの中から始まる福音

・最後に、女性たちは恐れと震えの中で逃げ去り、誰にも何も言わなかったと記されています。彼女たちは、思いもよらぬ出来事に直面し、心が大きく揺さぶられました。
復活という驚きの体験は、喜びや希望だけでなく、戸惑いや恐れも呼び起こしました。彼女たちが感じた恐れは、私たちが人生の中で予期せぬ状況や変化に直面したときに抱く不安と重なります。信仰を持っているはずなのに、現実の困難や未知の出来事に直面すると、心が乱れ、前に進むことができなくなることもあります。
誰にも何も言えずに逃げる女性たちの姿は、人間の弱さと率直さを物語っています。

・復活の物語は、ここで終わっているかのように見えます。しかし、実際にはここから始まるのです。
恐れや沈黙の中にこそ、新しい福音の始まりがあります。私たちが弱さや不安、戸惑いの中にいる時、その場が福音の出発点となるのです。
復活の主は、私たちの弱さを否定せず、恐れや迷いの中にいる私たち一人ひとりに語りかけてくださいます。
福音は、勇気や自信に満ちた人だけに与えられるものではなく、むしろ恐れや疑いを抱えるすべての人に向けて、主が先に歩んでくださるという約束から始まるのです。
なぜなら、「見ることができる」という約束は、これから成就していくからです。恐れや沈黙の中で終わったように見える物語も、主の約束によって、新しい展開が生まれていきます。
主は、私たちの心が閉じているときや、何も語ることができない時にも、静かに寄り添い、私たちが主を見つけ出すその瞬間を待っておられます。
復活の主に出会うことは、私たち一人ひとりの人生の中で、時には恐れや不安に満ちた状況の中から始まるのです。約束は、私たちの弱さを超えて、必ず成就していく神の力と愛を示しています。
恐れがあってもよい。信じきれなくてもよい。主は私たちの心の揺れや迷いを理解し、受け入れてくださいます。福音は、完璧な信仰を持つ人だけのものではありません。

疑いや不安、恐れを抱きながらも、主の約束にすがる私たちにこそ、主は最も近く寄り添ってくださるのです。
どんなに信じきれない時でも、祈る言葉が見つからない時でも、主は私たちの心の奥底に触れ、希望を与えてくださいます。
恐れや疑いを抱くことは、信仰の歩みの自然な一部であり、そこから新しい出発と成長が生まれます。

・それでも主は先に行かれ、必ず出会ってくださる。ここに福音があります。私たちがどんなに弱くても、どれほど恐れや不安にとらわれていても、主は先に歩まれ、私たちを待ち、出会ってくださいます。福音は、私たちの努力や功績によって与えられるものではなく、主の恵みによって始まるのです。復活の主が先に行かれることで、私たちは安心して歩み出すことができます。
恐れや迷いの中にあっても、主の約束と愛に支えられ、私たちは新しい人生の一歩を踏み出すことができるのです。
これこそが、恐れの中から始まる福音の力であり、私たち一人ひとりに与えられた希望です。

 

結び

・「主の御業の日」この日、私たちは知らされます。石はすでに転がされていること。主はすでに復活されていること。
そして、私たちは主を見ることができるということ。

これは、私たちの人生のどんな瞬間にも、主が私たちに寄り添い、私たちの心に語りかけておられるという確かな希望です。
たとえ私たちが困難や不安、迷いの中にいても、主はその状況を十分にご存知であり、私たちを導いてくださいます。
信仰の道を歩む中で、時には主の存在を感じられないこともありますが、そのような時にも主は静かに私たちと共に歩んでおられるのです。
どんなに心が閉ざされていても、絶望や孤独を感じていたとしても、主を見ることができるという約束は、私たちが再び希望を持って歩み出す力となります。
どのような状態にあっても、どれほど遠く離れてしまったとしても、私たちは時に、現実の厳しさや自分の弱さに押しつぶされそうになることがあります。
信じる心が揺らぎ、祈りの言葉すら見つけられない時もあります。
しかし、主は私たちがどれほど遠く離れてしまったとしても、決して私たちを見捨てることなく、変わらぬ愛で私たちを包み、待っていてくださいます。
主の約束は、私たちの努力や功績によるものではなく、主ご自身の恵みと慈しみによって成り立っています。だからこそ、私たちは安心して主を求め、主と出会うことができるのです。
主は先に行かれ、「そこでお目にかかれる」と約束してくださるのです。
この約束は、私たちがどんなに弱くても、恐れや迷いの中にあっても、主が先導し、私たちのために道を備えてくださるということを示しています。
主は私たちよりも先に歩まれ、私たちが出会うべき場所で待っていてくださるのです。人生の転機や困難な時期だけでなく、日々の営みの中にも、主と出会う機会が用意されています。
主の約束は、静かに私たちの心に寄り添い、私たちが気づかぬうちにも、復活の恵みと新しい出発への呼びかけを与えてくださいます。
私たちが主に出会う時、それは恐れや不安、疑いを抱えたままであっても、主の愛と恵みによって新しい希望が生まれる瞬間なのです。
この復活の主に出会う恵みの中で、共に喜び祝い、皆さんと共に歩んで行きましょう。
私たちは復活の主に出会うことで、恐れや不安を乗り越え、新しい人生の一歩を踏み出すことができます。
主の恵みは、私たち一人ひとりの心に希望を与え、共に歩む仲間たちと支え合いながら前進する力となります。
イースターは、主の復活と共に新しい希望と喜びが私たちの人生に満ちる日です。私たちが主の約束を信じて歩む時、どんな困難にも希望を見出し、喜びを分かち合うことができます。

皆さんと共に、復活の主に出会う恵みを喜び、祝い、共に新しい道を歩んでいきましょう。
イースターの喜びが、皆さん一人ひとりの人生に新しい光となりますように。イースターおめでとうございます。

 

祈り

・主よ、あなたの復活の恵みに心から感謝いたします。

どんな困難や迷いの中でも、あなたが私たちを導き、希望の光を与えてくださることに、深い信頼を寄せます。

今日、私たちが新しい一歩を踏み出す勇気と、仲間と共に歩む喜びをいただけますように。

どうか私たちの心を開き、あなたの愛と平和で満たしてください。

絶望や孤独を感じる時にも、あなたの優しい御手に支えられて歩むことができるよう、私たちを強めてください。

イースターの喜びが、私たち一人ひとりに新しい希望となりますように。

主の約束を信じて、いつもあなたと共に歩むことができますように。

あなたの愛と恵みが、私たちの人生を照らし続けますように。

主イエス・キリストのお名前によって祈ります。

アーメン。

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